File bQ 福山藩祖
福山藩祖 水野 勝成(みずの かつなり)
永禄7年8月15日(1564年9月30日)三河国刈谷城主水野忠重の嫡男として生まれる。
最終官位は従四位下 日向守。
徳川家康の母が父・水野忠重の姉であるため、家康の従弟にあたります。
遠江国高天神城攻めが初陣で、武田家との戦い、天正壬午の乱を転戦する。
小牧・長久手の戦いでは大将であるにもかかわらず一番槍を挙げ、軍令違反に咎められたことや、父・忠重の家臣を斬ったことで絶縁状態となる。
とにかく、武勇は抜群だったようですね。
その後は中国地方や九州を放浪し加藤清正、豊臣秀吉や佐々成政、三村親成らに仕えるものの、忠重の邪魔が入ったりでどこでも長続きしなかったようです。
築城技術は加藤清正から学んだらしい。
慶長3年(1598年)に家康の仲介によって忠重と和解するも慶長5年(1600年)に忠重が暗殺されてしまい急遽家督を継ぐ事になります。
その後の関ヶ原の戦いでは岐阜城攻め、曾根防衛、大垣城攻めに加わる。
慶長15年(1610年)に従五位下に任官され日向守となる。
この官位から勝成の猛将ぶりを評して「鬼日向」と呼ばれるようになる。
鬼〜って形容は多い気もしますが^^;
大坂の役にも参加して、夏の陣では先鋒として活躍したそうです。
そこでも大将の勝成自身が一番槍となってしまったため、冷遇され城が焼け落ちていた大和郡山六万石に転封される。
勝成は宮本武蔵と交友があり、大坂夏の陣では客将として嫡男・勝俊を守護したそうです。
そして元和5年(1619年)には西国鎮護として外様大名牽制のため備後と備中西部十万石を与えられ、神辺城に入る。
神辺城は山城で不便であり、また過去数度の落城の経験があったため、使えね〜って事で、新たに福山城を築城しました。
幕府も当時としては異例の全面バックアップをしてくれたそうです。
そして国作りに力を注ぎ、城下町の整備、産業育成、治水工事や新田開発を積極的に行い、治世にあっても優れた才能を発揮しました。
土木工事は好きだったみたいです。
放浪時代の経験が役立ったようです。
また、その経験から民にやさしい殿様でもあったそうです(´ー`)
ああ、でも治水工事で人柱をやってたか・・・・
寛永16年(1639年)に家督を嫡男・勝俊に譲り隠居したものの、島原の乱では親子三代で参陣したりしました。
慶安4年3月15日(1651年5月4日)福山にて没。
福山城下の賢忠寺に葬られ今も福山を見守っています。