攻城記
小菅城
別 名・・・小菅山城
主な城主・・那須氏
概 要・・・小菅城は、今から約七九〇年ほど前に築かれた城で、西江原才児を北から南に流れる雄神川の西方にそびえる小菅山頂(海抜約一四〇米)にあった。
しかし今は礎石など無く東西約六〇米、なんぼく約四〇米の城域に老松など生茂っている。
那須与一宗隆は、源平屋島の合戦(今から約八〇〇年前)に扇の的を射止め、空前の恩賞によって丹羽国五賀庄(兵庫県)信濃角豆庄(長野県)若狭国東庄(福井県)武蔵国太田庄(埼玉県)備中国桧原、荏原庄(岡山県)の地頭職を拝命した。
この城を築いたのは宗隆の弟那須小太郎宗晴であるが、間も無く彼は下野国(栃木県)に帰り、代わってその三男朝資が城主になり、それ以後子孫代々城主になった。
南北朝の末期嘉慶元年(一三八七年)那須頼資は、嗣子織部正弘と能登国(石川県)から高僧実峰禅師を招請して、開山一世として才児に禅洞山永祥寺を建立した。
弘隆の長子資泰は、小菅城主となったが、次子光隆が中堀城(西荏原町今市)を築いたのでここに移り住み、那須氏の居城としたので小菅城は廃城となった。
時を経て永享一二年(一四四一年)に那須長隆は新たに十蔵城(西荏原町戸倉)を築いて、ここに移り住んだ。
長隆より五代の孫清資は、毛利氏に居し天追十年(一五八四年)備中高松に出陣し、羽柴秀吉の大軍を迎えうち慶長五年(一六〇〇年)には関ヶ原戦に徳川家康と戦ったが、どちらも敗れ関ヶ原戦後毛利氏が領地をけずられ、那須氏は十蔵城を開城して野にくだった。
※現地説明看板より
岡山県井原市西江原町の小菅城へとやって参りました
ここは源平の合戦で有名な那須氏縁の城跡です
井原市は他にも北条早雲の出身地だったり凄いですねー