攻城記
国吉城
別 名・・・手の庄城
主な城主・・安藤氏、三村氏、口羽氏、糟谷氏
☆高梁市指定史跡
概 要・・・備中松山城(城主三村元親)の支城である国吉城(城主三村政親)は、毛利輝元の総大将小早川隆景の率いる二万の兵に、天正二(十五七四)年十二月大晦日の夜、遂に攻略された備中兵乱の激戦を伝える中世の山城である。
「備中府誌」によると安藤太郎左衛門入道元理が北条家からこの地を地頭職として宛行われた。
この城を創設した時期は鎌倉期以前と思われる。
兵乱後は毛利から口羽中務大輔春吉が在城。
また関ヶ原合戦後に毛利が萩に移封となってからは、糟谷内膳正武則、八兵衛安長など慶長七(十六〇二)年から同十五(十六一〇)年まで居城したが、翌十六(十六一一)年に徳川幕府直轄領となったのを機会に廃城となった。
この城は「く」の字状に屈曲した横矢斜の連郭式山城である。
館跡と思われる地頭「堀ノ内」から北西約一.五キロ離れた標高四一九.六メートルで、谷田よりの比高約一四〇メートル。
付近の地名に陣山、逆茂木谷、礼場、掛谷、水ヶ迫、的場ノ段、小城山、玄蕃ヶ鼻等がある。
城の縄張りは総延長一八〇メートルの城郭で、南北に連なる八曲輪と、西側より南側へ回り込んでいる通称「馬場」と呼ばれている脇郭で構成されている。
最北の郭を「一ノ壇」と仮稱すると、この郭は長さ七〇メートル、幅一五〜一八メートルで、その北端に長さ七メートルの小規模な土塁がある。
「二ノ壇」は「一ノ壇」より〇.五メートル上にあり、郭面は東西一五メートル、南北二四メートルの規模でここが主郭である。
その理由は城郭全体のほぼ中央に位置すること、城内に入る道が「一ノ壇」の東辺に沿って「二ノ壇」に通じていることなどによる。
脇郭の構造の特色は、郭面からかなり離れた低い位置にあり、また郭面からの距離は一五〜三〇メートル、比高は二〇メートル以上もあり、この施設が部分的、限定的なものでなく、峰続きの北側から連郭の西辺を直線的に走り、南西角に折れをもって、南辺まで延びる大規模なものである。
したがって城内の奥行を増し、攻勢、防禦の両面の機能を一層高めている。
※現地説明看板より
鶴首城に続いて国吉城へとやって参りました
山頂付近までは車で登れるので楽に攻略が可能です